阪神急行電鉄→京阪神急行電鉄51・63・75・81・87(←300)形→98形:
1920年の神戸線開通に伴って建造された、阪急史上初の高速電車である。
製造メーカーは51形と63形が梅鉢鉄工所(のちの帝國車輌)、75形以降は川崎造船(現・川崎重工)で製造された。
大別すると1920年製の51形、1921年製の63形、1922年製の75形、1923年製の81形・300形(→87形)の4タイプ5形式に分かれる。
51形は前面部分が5枚窓の「卵型」と呼ばれたスタイルのもので、当時関西私鉄の間で流行した形状。
当初はダブルポール、螺旋式連結器とバッファー、フェンダーを取り付けており、いかにもインターアーバンらしい姿であった。
これは当時大阪市内が併用軌道であったことによる。
続く63形では運転台の床面積を広げるため、角ばった前面形状に変更となり窓も3枚にかわった。
75形はパンタグラフと自動連結器を当初より備え、他の車輌もこの仕様に改造された。
ただし車庫での入れ替え用に、当初は非パンタ側エンドにポールを取り付けていた。
この75形をシングルルーフに設計変更したのが81形で、同系のトレーラーは300形と名乗っていたが、
のちに87形と改番された。
その後神戸線に600形(
illust/48013478)や900形(
illust/47533899)が入ると、
高速性能に難のある51・63形は神戸線の運用から離脱することとなった。
まず1926年に51形と300形が、1930年には63形が宝塚線に転出。
1931年には800形(のち650形を経て600形Ⅱ)への電装品供出でトレーラーとなった75形が、
1932年には残る75・81形も全車が宝塚線に転出した。これは宝塚線での急行運転を開始するに当たり、
急行運用は高速特性に優れた75・81形で統一するためであった。
戦災による廃車はなかったものの、終戦直後の1946年には54号と77号が池田車庫の構内火災で全焼、
920系973・974号に更新改造するという名目で実際には車籍のみ引き継がれ、
焼け残った台枠は無蓋電動貨車209・210号(のち4209・4210号)として再生されることとなった。
またこの時期は全国各地で老朽木造車による重大事故が多発したことから、
阪急でも安全性向上策として本形式群も鋼体化を実施することとなったが、
実際に鋼体化改造されたのは51形51号および75形78号の2両だけで、
残る各車は1953年より新造車体と組み合わせて610系へと改造されることになった。
一方、51形のスタイルを残したままで鋼体化された51号と78号は500形Ⅱに電装品を譲り、
300形Ⅱ(←500形Ⅰ。
illust/48113246)の
トレーラーとして運用されたが、1956年に再電送のうえで98形98・99号となって2両編成で活躍した。
98形は伊丹線ならびに甲陽線で使用されたが、1959年の踏切事故で99号が床下を損傷、
たった2両のみの少数派で、特殊な生い立ちの車輌だったことから1960年に廃車となった。