太平洋戦争の第一撃は南雲機動部隊による真珠湾攻撃といわれていますが、実際はマレーの虎とのちにおそれられることになる日本陸軍の名将山下奉文率いる第25軍のマレー上陸が80分早く実施されているので、彼こそがこの戦争の口火を切ったといえるでしょう。
山下の第25軍はイギリスの極東における牙城、パーシバル中将が守るシンガポール要塞へ向けて九七式中戦車をはじめとする機動兵力と舟艇を利用した電撃電を繰り返してわずか数か月でこれを陥落せしめ、世界中に衝撃をあたえました。
この戦いの最大の功績者である山下でしたが、東条英機から疎まれていたこと、そしてなにより2・26事件時に反乱軍に同情的であったことから時の昭和天皇の信頼を失っていたことにより閑職においやられてしまいます。
戦況ひっ迫が明らかとなった昭和19年、山下はフィリッピン守備の第14方面軍司令官の要職を任されることになりますが、中央からの「間違った情報に基づく」度重なる干渉を受け、有効な対策がとれないままかの地で悲惨な闘いを終戦の日まで繰り返げることになります。
翌年彼は同地で米軍の軍事裁判において米陸軍の法務将校団による必死の弁護にも関わらず死刑判決が下され、同年モンテンルパ刑務所において絞首刑に処されました。
一方、山下の軍旗に下ったパーシバルは当初こそ山下の配慮によりある程度その身柄を優遇されていたものの、満州の収容所に送られてからは悲惨な虜囚生活を強いられましたが最後まで生き延び、ミズーリ号での日本降伏の調印式に参加したのを最後に一切の公務から引退。以後は回想録を描きながらの静かな余生を過ごしたといわれています。