奥山道郎は戦局如何ともし難くなった沖縄での戦いの最中に実施された空挺強襲作戦の指揮官で、義烈とは正義の心が極めて強い人の意。
三重県出身の若干20歳半ばの陸軍大尉であったが情け深く気さくな人柄で隊員からの信望厚く、指揮下に組み込まれたエリート畑の中野学校出身将校を瞬く間に心服させたり、激しい降下訓練の最中に亡くなった戦友の肉片を自ら一つ一つ拾い上げて涙したというエピソードが存在する。
彼らは当初本土空襲を繰り返すB-29爆撃機の基地がおかれたサイパンへの強襲と、かの地での長期ゲリラ戦を展開すべく編成されたが、急速に悪化する戦況がその機会を奪ってしまう。
昭和20年4月1日、沖縄に米軍が上陸して忽ち飛行場を設営すると、これを沖縄の日本軍守備隊(第32軍)と連携させて破壊すべく空挺強襲が計画された。
しかし意思統一を欠いた陸軍上層部の逡巡により何度も延期されて時期を逸し、結果的に「沖縄守備隊への義理を果たす為」程度の理由で彼らを鉄火の嵐に送り込むこととなる。
昭和20年5月26日、奥山ら140名を乗せた12機の九七式重爆が出撃したが、機関不調により4機が離脱して残る8機が飛行場への突入を敢行。
この際に「奥山大尉を乗せた一番機」をはじめ7機が分厚い対空弾幕に撃墜され、町田一郎中尉らを乗せた4番機のみが読谷北飛行場胴体着陸に成功して駐機している米軍機や物資集積所への攻撃を開始。
彼らの獅子奮迅の戦いにより米軍側は管制官など20名が死傷、航空機38機を撃破・損傷され、備蓄されていた7万ガロンの燃料をさせられたが数時間の激闘の後に制圧し、もって突入を試みた義烈空挺隊員は全員散華した。
参考:
https://www.youtube.com/watch?v=0j2bbABRQYw