サイモン・B・バックナーJrは太平洋戦時のアメリカ合衆国海兵隊中将
南北戦争において幾度も傷を負い北軍司令官グラント将軍に降伏した南軍の著名な将軍で、後ケンタッキー州知事となった同名の父を持つ。
正規の士官として米比戦争~WWⅠに従軍し、戦間期はウエストポイントの教官を経て太平洋戦争開戦時にアラスカ方面軍司令として前線に復帰。
以後、アッツ・キスカの戦いにおいて軍功をおさめて将官昇進を果たし、1944年に海兵隊と陸軍の混成部隊である第10軍司令官に着任した。
当初は後に実施される予定だった台湾攻略部隊として編成されたが、先輩格であり歴戦の上陸戦のプロだった猛将ホランド・スミス中将(マッド・スミス)がニミッツ海軍大将ら上層部から不興を買って旗下部隊共々沖縄攻略から外されたことから急遽、沖縄攻略戦の重責を担う事となった。
1945年3月26日に沖縄攻略作戦「アイスバーグ」が発動されると同年4月1日、海兵2個師と陸軍2個師の総勢18万をもって沖縄中西部へ上陸をはたし、同地を護る牛島満中将の第32軍との死闘を開始した。
しかし降板させられた、マッド・スミスがガダルカナル等の南洋の激戦地で麾下将兵らと共に多くの経験を積んでいたのと比べ、バックナーとその部下らには明らかにそれが欠けていた。
結果、完全とは言い難い日本軍守備隊との戦闘において時に翻弄され、時に大きなチャンスを幾度も見過ごして無為に戦闘を長引かせてしまうが、それは日米両軍の兵士たち、そして現地の一般市民らの犠牲を無駄に増やす事を意味していた。
最終的に第32軍が無謀な逆襲に転じた事、そして無計画とも言うべき沖縄南部への陣地後退によって戦況は一気に米軍に傾いたが、6月18日にバックナーは喜屋武半島・真栄里を視察中に数少ない日本軍の砲火を浴びて戦死し、後の1954年にはその功績が認められ大将を追贈された。
この時既にバックナーは日本軍側から識別されており、彼が巡視に来るたびに決まって砲火を浴びる事から前線の兵士から歓迎されされてはいなかった。
更に死の直前に巡視中止を諫言した現地部隊の大佐が1時間後には戦死したが、それでも巡視を強行した理由については彼の直接的な死因共々解明されていない。